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お茶にハマる戦国武将~戦よりお茶で名を上げた武将茶人の話~|1899 CHACHACHA BLOG

2024/02/17 心の旅の話 古幡祐介

お茶にハマる戦国武将~戦よりお茶で名を上げた武将茶人の話~|1899 CHACHACHA BLOG

千利休がつくったと伝わる国宝の茶室「待庵(たいあん)」

お茶にハマる戦国武将~戦よりお茶で名を上げた武将茶人の話~

以前のブログで「忠臣蔵」の物語にお茶が深く関わっていたというお話しをさせていただきましたが、その中で吉良上総介と赤穂義士に茶道で繋がりがあるという事がわかりました。
これに限らず、日本の歴史上、侍のお茶好きエピソードには枚挙にいとまがありません。
特に戦国武将の中にはお茶にハマっていた人物が多数いるようです。
ある人物にいたってはお茶が好き過ぎて武将としてよりも茶人としての方が有名になってしまうほどでした。
今回は戦国武将の間でいかにお茶が流行していたのか学んでいきたいと思います。


お茶は禅の修行の為に渡来した

皆さんはお茶を飲み過ぎて寝れなくなったことはないでしょうか。これはコーヒーなどにも含まれるカフェインによるものですが、日本に渡って来た時はこの眠れなくなる覚醒効果を求めて飲まれていました。すべての煩悩を克服しようとする禅の修行では、睡眠欲に抗うために禅僧が飲んでいたのだそうです。鎌倉時代に仏教を学ぶため中国を訪れた栄西は、修行の為に飲まれていたお茶に注目し、その効果を日本に伝えました。
つまり、お茶を飲むことがこの当時、自らの心を鍛える修行であったのです。
この点で、常に死と隣り合わせであり、心身を鍛えている侍達はお茶に惹かれたのではないでしょうか。
栄西は鎌倉の2代将軍源実朝にお茶が健康にいいよとおすすめしたそうです。ここから侍たちの間でお茶が広まっていきます。
その後の室町時代では歴代将軍が中国伝来の茶器を好んで集めていたそう。幕府が鎌倉から室町に遷ってもお茶の流行は続いていたのです。

信長・秀吉によるお茶の政治利用

さらにその後の戦国時代、このお茶を本格的に政治利用していたのが織田信長です。お茶の際に使用する茶道具の中でも中国から伝来した物は「名物」と呼ばれ、現在のブランド物のように持っているだけでステータスとされていましたが、信長は勢力拡大していく中で、屈服させた相手に服従の証として「名物」を献上させるなどしていました。それは「名物狩り」と呼ばれており、日本中の茶器を集めていったのですが、それを手柄を立てた家来に与えることによって大きな褒賞としたと言われています。
その結果なのか、織田信長が戦国時代の覇権を握ろうとする中でその家来たちはお茶を重要視するようになったのです。

そんな信長のお茶の政治利用を踏襲したのが、豊臣秀吉です。彼は信長の仇討ちを成功させた人物として権力を手中に納めていきますが、上司であった信長の良いところを受け継いで政治を行っています。その中で、秀吉も信長同様にお茶を政治に利用していました。これはお茶の政治利用がいかに効果的だったか、当時の戦国武将がいかにお茶にハマっていたかがわかるものではないでしょうか。

茶道は信長、秀吉のもとで大成した

また、いかに戦国武将がお茶好きであったかわかる話の一つに、千利休(せんのりきゅう)という人物がいます。彼は商人であり身分的には一般庶民でしたが、織田信長に能力を買われて取り立てられます。お茶を政治利用する信長、秀吉の下で活躍することでその影響力を強めていったのです。その結果多くの戦国武将が弟子入りを求めて彼の下に集まりました。
彼はわび茶の完成者とも呼ばれ、今の茶道を大成させた人物と言われています。現在でも続く茶道の流派の裏千家、表千家の「千家」とは、この千利休の子孫だという事をさしているのです。
織田信長の下で千利休が茶道を大成した。つまり信長がいなければ今の茶道はなかったのではないでしょうか。

京都・西陣にある「円通山興聖寺」古田織部ゆかりの寺院“織部寺”とも呼ばれている

お茶で名を残した戦国武将

そんな中、「茶人」として有名になった戦国武将の一人に古田織部(ふるたおりべ)という人物がいます。彼は織田信長の家来でしたが、お茶にハマり千利休の弟子になります。
彼は利休の高弟7人を指す「利休七哲」に数えられ、利休の死後「天下の茶人」と称されるなど、茶人として名を残しました。
 その後も江戸幕府で2代将軍徳川秀忠の茶の指南役に選ばれるなど活躍したのですが、豊臣家のスパイであったことを徳川家康に疑われ切腹させられてしまいます。
これによりお家は断絶し、彼に関する一次資料はほとんど現在に残っていないそうです。

それでも彼の地元で作らせた茶器等の焼き物は「織部焼」と呼ばれ現在でも残っていますし、彼が気に入っていた手作り感のあふれる変わった形の茶器は「織部好み」と呼ばれこちらも現在まで残っています。
彼の活躍は資料が少ないこともあり、話に尾ひれがついたりすることでお茶の世界で伝説の様になっていったそうです。
戦での活躍の資料がほとんど残っていないこともあり、戦国武将ですが、戦ではなく茶人としての側面ばかりで有名になったのでした。

もちろん彼だけでなく、多くの戦国武将が千利休の弟子になっていました。
織田信長の実の弟である織田有楽斎という人物もまた、「利休七哲」に数えられ、戦での活躍より茶人としての活躍が有名です。

今回は戦国武将にいかにお茶好きが沢山いたのかを見ていきました。
他にも、信長に「名物茶器」を渡せば裏切りを許してやると言われたのに死んでも渡したくないと拒否した武将や、秀吉にお茶を出しただけで気に入られたという武将など、お茶と戦国武将の話は沢山でてきます。
侍とお茶は切っても切れない関係だったのですね。