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ボストン茶会事件~お茶がなければアメリカ独立はなかった!?~|1899 CHACHACHA BLOG

2023/12/16 心の旅の話 古幡祐介

ボストン茶会事件~お茶がなければアメリカ独立はなかった!?~|1899 CHACHACHA BLOG


ボストン茶会事件~お茶がなければアメリカ独立はなかった!?~

世界の覇権国アメリカ合衆国。その成立とお茶には切っても切れない関係があることを皆さんはご存知でしょうか。もしかしたらお茶がなければ「アメリカ合衆国」はなかったかもしれません!?
しかもそれは250年前の今日(12月16日)の出来事なんです!!

アメリカの建国にとって重要な、アメリカ独立戦争のきっかけとなる事件。
今回はそんな「ボストン茶会事件」について学んでいきたいと思います。

ちょうど250年前の今日、ボストン茶会事件は起こりました

1773年12月16日。このブログを書いた今日が2023年12月16日ですので、ちょうど250年前の出来事。
アメリカ東海岸ボストンの港で大量の紅茶が貨物船から海に投げ捨てられました。

その時アメリカ合衆国という国はまだ存在せず、その場所には13個のイギリスの植民地とアメリカ原住民が住む荒野が広がっていました。そんな植民地の一つ、マサチューセッツ植民地(現在のマサチューセッツ州)の都市ボストンのお話。当時のアメリカでは、紅茶が流行していました。しかし、アメリカはお茶を栽培するのに適していません。アメリカは紅茶をイギリスから輸入していました。

一方のイギリスは、フランスとの戦争の後でした。当時のイギリスは多くの植民地を支配する大国でしたが、戦争の影響でとにかくお金がありません。そこで重い税金をかけて植民地であるアメリカからお金を取ろうとし始めたのです。

イギリスは「タウンゼント諸法」と呼ばれる複数の法律を作り様々な物を課税の対象としましたが、その中に紅茶も入ってました。この増税にアメリカ植民地の人々は怒ります。「代表なくして課税なし」という言葉が有名ですが、アメリカ植民地からイギリスの議会に議員を送ることができなかったため、アメリカ植民地の人々の不満はイギリスには届きません。課税商品の不買運動をしたり、抵抗するしかありませんでした。
この時に課税された紅茶の代わりに飲んだコーヒーが、後のアメリカンコーヒーだったそうです。
紅茶と同じ様に飲みたかったので少し薄めのコーヒーになったのだとか。

しかしそんな抵抗に対してイギリスは暴力で解決しようとします。イギリス軍はボストンを占拠。ボストンでイギリス軍に民間人が射殺される事件が起こりました。
ますます大きくなるイギリスへの不満。アメリカ植民地の人々は抵抗を続け、ほとんどの課税を撤廃する事ができたのですが、なぜか茶税だけは無くなりませんでした。

ボストン茶会事件参加者の墓標に設置された記念碑。250周年の一環として全米中の事件参加者のお墓に供えられるのだそう。

なぜボストン茶会事件が起こった?原因は“茶法”

それならばとアメリカ植民地の人々はイギリスからではなく、オランダ商人から密輸することで茶税から逃れようとしました。しかしイギリスはこれを許しません。植民地でのお茶の販売をイギリス東インド会社が独占する権利を与える“茶法”を作って対抗したのです。

これは一見お茶を比較的安く買うことができる様に見えるのですが、そもそもイギリスがお茶に大きな税金をかけなければいい話じゃないか!とアメリカの人々は納得しませんでした。
そもそも増税しなければ軽減税率はいらないじゃないか!と言うのと似ていますね。

そうしてようやくアメリカでお茶が売れるぞ!と、イギリス東インド会社の貿易船が沢山のお茶を積んでボストン港に集まってきました。そこで事件が起こります。

事件を引き起こしたのは「自由の息子達(サンズ・オブ・リバティ)」を名乗る反イギリス、反茶法運動を行う活動家達。彼らはボストン港に大量のお茶を載せた船が来るのを到着前から知っていました。50人の「自由の息子達」はアメリカ先住民の衣装を着て、彼らのふりをして到着した船に乗り込んだのです。
お茶を購入すること、それ自体がイギリスにお金を払うことではないかと憤った彼らは、その貨物船から大量の茶箱を海へと投げ捨てました。

ボストン茶会事件の原因は、イギリスからの重税に憤るアメリカ植民地人による、茶法に対する抵抗だったのです。

ボストン茶会事件の船と博物館。船は事件で襲撃されたビーバー号を再現したもの。

お茶に罪はないのに…ボストン茶会事件で消えたお茶

彼らは「ボストン港をティーポットにしてやる」と叫んだとか叫んでないとか。この時、「イギリス国王に対してティーパーティーを開いてやるんだ」と冗談を言った人がいたらしいという事で、後世になって”Boston Tea Party”とこの事件のことを呼ぶようになったのだそう。これがボストン茶会事件の名前の由来と言われています。

とにかくもったいない事に、このボストン茶会事件ではなんと342箱もの紅茶の入った茶箱を投げ捨てられ、およそ46トン以上のお茶葉が海の藻屑と消えたそうです。
お茶は悪くない、お茶に罪はないのに…

ボストン茶会事件からアメリカ独立戦争に発展

この事件はイギリスの人々にも衝撃を与えました。ここまで激しい抵抗があると考えていなかった為です。この報復にイギリスはボストン港を封鎖しました。さらに厳しい条約を作り植民地を押さえ込もうとしました。

これに対しバラバラだった複数の植民地が一致団結し、マサチューセッツ植民地を助けようとします。複数の植民地から代表者が集まり、話し合いを行いました。この会合は「大陸会議」と呼ばれました。まだまだ先の話ですが、こうしてイギリスに対抗しようと集まった複数の植民地が「州」へと変わり、この「州」が集まって”合衆国”になっていったのです。

この第一回大陸会議ではイギリス製品を買わないことや、植民地を縛る様々な法律への抗議、ボストン港の解放を訴えるなど、協力してイギリスに対抗しました。

もちろんこれにイギリスも怒ります。イギリス軍は植民地の人たちが抵抗の為に集めていた武器を取り上げようとマサチューセッツのコンコードに派遣されます。
それを見て植民地の市民は武装し、イギリス軍に発砲します。
これがアメリカ独立戦争の始まりでした。

武装市民の民兵はわずか数分で準備して戦ったためミニットマンと呼ばれました。戦争が始まった当初は職業軍人はおらず、ほとんど訓練もしておらず、制服すらも無かったのだそう。まさに市民が団結してイギリス王国に対抗するというもので、この時の「自分の身は自分で守る」という精神が「一般市民も防衛の為銃武装するべきだ」というアメリカの銃社会の根底にあるとも言われています。

とにもかくにもこうしてアメリカの複数の植民地は団結し、イギリスとの戦いに勝利し、独立を勝ち取ることになったのでした。

お茶にかけられた重税が大事件に発展し、それが戦争の引き金となり結果的にアメリカ合衆国という国が生まれました。もしかしたら、お茶が無ければアメリカ合衆国は存在しなかったかもしれません!

今度紅茶を飲むときは、遠くアメリカのボストン港に思いを馳せてみませんか?

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