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石田三成〜SHOGUNのライバルはお茶接客の達人!?~|1899 CHACHACHA BLOG
2024/11/23 一服のお茶のような話 古幡祐介
石田三成〜SHOGUNのライバルはお茶接客の達人!?~
エミー賞を獲得して世界で話題になったドラマ「SHOGUN 将軍」。
皆さんはご覧になりましたか?
登場人物は明らかに歴史上の人物がモデルとなっていて、それぞれ偽名のような名前で登場します。
描かれている時代は太閤(明らかに豊臣秀吉)の死後の日本で、有力な武将のひとりであり周りから「将軍」になることを期待されている大名(明らかに徳川家康)が、太閤の家来でリーダー格のライバル(明らかに石田三成)の謀略で失脚させられそうになるところから始まっています。
史実通りに描くならこのあと関ケ原の戦いになるのでしょう…!(私はまだ数話しか見ていません)
そんな話題のドラマの「敵」役のモデルとなった石田三成について、皆さんはご存知でしょうか?
実は石田三成は、お茶を提供する“接客”の素晴らしさで豊臣秀吉に気に入られて大抜擢された人物なのです!
「天下分け目の関ヶ原の戦い」で徳川家康と戦った石田三成は、おもてなしの心、細部まで考えられた配慮で天下人に気に入られ出世した武将なのです。
今回はそんな、石田三成についてお話ししたいと思います。
石田三成の三献茶
石田三成は今の滋賀県、近江の国の出身で、その土地の豪族の三男坊でした。
近江は以前のブログでも書いた通り、お茶の名産地。
そんな三成がまだ十代の時、豊臣秀吉と出会い、お茶を出した時の話が「三献茶」と呼ばれて後世にまで語り継がれています。
「三献茶」のエピソードは豊臣秀吉がまだ、織田信長の家来のひとりであった時の話。
当時秀吉は「近江長浜城」というお城の城主でした。
ある日秀吉が鷹狩をしている途中で休憩の為にお寺を訪れたといいます。
そのお寺で喉が渇いた秀吉がお茶が欲しいというと、十代の少年であった石田三成が大きな茶碗にぬるめのお茶を入れて持ってきました。
秀吉はそれを一気に飲み干すと、もう一杯欲しいと言います。
三成は一杯目とは違うお茶を出しました。先ほどよりも少しだけ小さいお茶碗に、少し熱めのお茶を半分くらいの量を入れて出しました。
秀吉はそれも飲み干すと、三杯目を要求しました。
三杯目は高価で小さい茶碗で、熱々のお湯でほんの少しの量のお茶を出しました。
秀吉はこれを見て、少年だった三成の才能を見抜き臣下に加えたと言われています。
これがどういうことかわかりますでしょうか?
三成は、秀吉から三回の同じ「お茶ちょうだい」という指示に対して、秀吉の状況や状態に合わせて本当に秀吉が求めているものは何なのかをしっかり考えてお茶を出していたのです。
例えば最初のお茶は、ぬるめのお茶を出すことで運動したあとの喉が乾いている秀吉がすぐに飲めるお茶でした。
2番目のお茶はちょうどいいお湯の量で、しかもお茶を美味しく飲むのに最適なお湯の温度です。喉の渇きが潤った後だったので、一番美味しく飲むことができると考えたのではないでしょうか。
3番目のお茶は熱々で少しの量でした。お湯の温度が高ければ高いほどカフェインも抽出され、覚醒効果が高まります。恐らく休憩を終えて再び出発するであろう秀吉が「よし!」と気合が入るような、リフレッシュできる一杯を提供したのでした。
このおもてなしの心こそ1899で働く我々「茶バリエ」にとって見習うべきものではないでしょうか。
このように、ゲストである秀吉の様子を観察し、その本当に欲しい物を提供するという機転を少年石田三成は持っていたのです。
秀吉は三成の凄さに気が付き、自分の家来にしたのだと言われています。
現代の関ヶ原の風景と石田三成の旗(家紋は「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)と読み、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味があるそう。)
天下分け目の関ヶ原
秀吉に見出された石田三成は、その後太閤にまで出世する豊臣秀吉のもとで活躍します。
石田三成は戦国武将ですが、豊臣家の中では「文治派」と呼ばれました。
これは戦が上手で、物理的な力で活躍する「武断派」と対になる言葉で、どちらかというと政策立案や実務を行う、いわば政治家タイプの武将でした。
秀吉が九州を手中に収めた時には、戦火に焼かれた博多の町の再建を行うなど三成には戦以外の面での活躍が数多く伝わっています。
豊臣秀吉の死後、「武断派」のリーダー的な存在になっていた徳川家康と、「文治派」のリーダーであった石田三成とが岐阜県の関ヶ原で戦うことになります。これがその後の日本を左右する大きな戦争であったということで、「天下分け目の戦い」と呼ばれることになるのです。
この戦いに勝利した徳川家康が征夷大将軍になったことからも、石田三成が日本の歴史上重要な人物であることがわかると思います。
石田三成の墓(和歌山県高野山)
物語では悪者かもしれませんが
残念ながら石田三成は関ヶ原の戦いに負けた後に捕らえられ処刑されてしまいました。
石田三成は日本の歴史上、「負けた側の大将」として有名です。その後に日本は徳川将軍の江戸時代になっていることからわかる通り「偉大な初代将軍に歯向かった武将」として悪役に描かれている物語もとても多い人物です。しかしそんな彼には「お茶接客の達人」としての一面もあるのでした。
海外の人が日本を知るきっかけになるであろうドラマ「SHOGUN 将軍」も、恐らく彼をモデルとしたキャラクターは悪者として描かれるかと思います。
しかし日本人としては彼の悪者ではない部分も知っておいて欲しいと思います。
海外の人に「あの武将は悪い人物だ…」と言われた時に、「いやいや彼も悪人じゃないんだよ…」と紹介してもらえたらと思います。そんな機会があるのかはわかりませんが(笑)