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忠臣蔵のあらすじを解説! ~お茶がなければ忠臣蔵はなかった!?~|1899 CHACHACHA BLOG
忠臣蔵のあらすじを解説! ~お茶がなければ忠臣蔵はなかった!?~
テレビドラマの時代劇でよく題材にされている、赤穂浪士の討ち入りを描く「忠臣蔵」という物語。美談とされ、とても有名な話ですが、そんな「忠臣蔵」と「お茶」が切っても切れない関係であることを皆さんはご存知でしょうか。お茶がなければ忠臣蔵はなかったかもしれません(!?)。
今回のブログはそんな忠臣蔵とお茶の関係について学んでいきたいと思います。
「忠臣蔵」ってどんなお話?
忠臣蔵とは、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目の一つとして上演された、江戸時代中期の赤穂事件をもとに創作された物語です。赤穂事件とは、赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)を切腹させられた敵討ちで起きた江戸時代前期の事件。
浅野内匠頭は江戸城内での職務中、その指南役であった吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りかかりました。
本当の原因は不明ですが、心無い指導や嫌がらせがあったとか。
ともあれ、争いは両者に非があるとする「喧嘩両成敗」の時代であるにもかかわらず、一方の吉良上野介は無罪放免でお咎めがなく、一方の浅野内匠頭だけ江戸城内で暴れた罪で切腹させられ、赤穂藩浅野家はお家取り潰しの憂き目にあいます。
主人公の大石内蔵助は浅野家の家臣で、主君である浅野内匠頭の死後浅野家の再興に尽力します。
しかしその道が潰えてしまった為、本当に信頼できるわずかな人数の仲間(赤穂四十七士)と吉良上野介の邸宅に押し入り、仇討ちをすることになります。
この時代、親や主君を殺された家族や家臣が相手を討つことは「仇討ち」と呼ばれ、復讐や仕返しというだけではなく、不合理を正す行いとして認められていました。
雪の降る12月の深夜、吉良の寝ているところを狙って討ち入りすることで見事に敵討を成功させて、その足で浅野内匠頭の墓前に討ち入り成功を報告しました。
当時の武士道を描いた忠義と自己犠牲の物語として美談にされて有名になり、現代ではテレビドラマや映画などの題材に度々選ばれています。
しかし、なぜここで忠臣蔵の話?と疑問に思う方も多いでしょう。
実はこの赤穂浪士の討ち入りにお茶が大事な役目を果たしていたのです。
吉良上野介と茶道
話は大石内蔵助が敵討ちを画策する場面。家を取り潰された手前、仇討ちまで失敗に終わっては武士の面目が立ちません。どうしても仇討ちを成功させたい。そのためには確実に吉良上野介が在宅のところを抑えなければなりません。そんな時、大石のもとに一報が届きます。
「吉良上野介が茶会を開催する」と。
吉良上野介は宗徧流茶道を学んでいました。宗徧流とは、有名な千利休の孫にあたる千宗旦の弟子、山田宗徧が始めた茶道の一派。つまり吉良は茶人でもあったのです。
ではなぜ茶会を開くことがわかったのでしょうか?
実は、赤穂四十七士の一人、大高源吾は吉良と同じく宗徧流茶道を学んでおり、その関係から吉良の茶会の情報を入手したのです。
これにより大石は討ち入りの日取りを決めて決行、見事討ち入りを成功させたと言われています。
つまりお茶がなければ討ち入りが成功せず、忠臣蔵の物語はなかったかもしれません。
都内の忠臣蔵ゆかりの地
そんな忠臣蔵の物語のモデルとなった赤穂事件は東京が主な舞台となっています。
遠い300年前の事件に思いを馳せ、東京をお散歩してみましょう。
両国・吉良邸跡
討ち入りがあった吉良邸は跡地が小さく残っています。場所はJR両国駅からほど近く、徒歩10分程歩いた住宅地の中に「吉良邸跡」はありました。討ち入り当時の吉良邸は現存する跡地の86倍の面積があったとされ、現在はほんの一部しか残っていないことになります。
もともと吉良上野介の屋敷は鍛冶橋にあったそうなのですが、浅野内匠頭に切りかかられた事件のあと赤穂浪士が討ち入りに来るからと周囲の大名屋敷から苦情が出て、この両国まで引っ越しすることになったようです。江戸城近くの屋敷に比べ格段に討ち入りしやすくなったと当時から世間で言われていたそう。
また、少し歩いて両国橋のたもとには、吉良の茶会の情報を入手した大高源吾の句碑もありました。
討ち入り後の句会で大高が読んだとされるこの句は、「お蔭様で本懐を遂げ、積年の恨みを晴らしましたよ」という意味が込められているそうです。大高は茶人にして俳人という文化人だったんですね。
泉岳寺・赤穂義士墓地
切腹させられた赤穂四十七士のお墓は泉岳寺にあります。元々浅野内匠頭のお墓があり、討ち入り直後に打ち取った吉良上野介の首を持って両国からこの泉岳寺まで赤穂浪士たちは江戸を練り歩いたそう。
現代の道でも歩くと2時間以上かかります。浪士たちは雪の積もる中3時間程掛けて歩いたのだとか。
泉岳寺は都営浅草線泉岳寺駅から徒歩3分、JR高輪ゲートウェイ駅から徒歩7分程で到着します。
ここには持ってきた吉良の首を洗ったとされる「首洗い井戸」もあります。ここで洗った吉良の首を内匠頭の墓前に供えて仇討ちの成功を報告したのです。
またそのすぐ近くには「赤穂義士記念館」があり、赤穂浪士の貴重な遺品などが展示されています。
新橋・浅野内匠頭終焉の地
話は遡って江戸城で浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかる事件があった日、浅野内匠頭はその日のうちに切腹させられてしまいます。その際切腹したのが、事件後預けられた陸奥一関藩主・田村建顕(たむらたつあき)の芝愛宕下邸のあったこの場所でした。
新橋駅から徒歩5分程歩いた場所にひっそりと立っています。
お散歩に疲れたら
忠臣蔵を巡るお散歩はいかがでしたでしょうか。実は「浅野内匠頭終焉の地」からほど近い、新橋6丁目にホテル1899東京があります。
1階には日本茶専門カフェのチャヤ1899東京があり、急須で入れたお茶や、人の手で点てた抹茶を使用したお抹茶のラテ「濃茶ラテ」をお楽しみいただけます。
お散歩に疲れたらチャヤ1899東京で旅の思い出に浸りつつ、緩やかな時間を過ごすのはいかがでしょうか。