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御茶ノ水の由来|1899 CHACHACHA BLOG
2021/06/19 一服のお茶のような話 濱田裕章
御茶ノ水の由来
1899が創業した地である「お茶の水」。
お茶の水というと皆さんどんなイメージがありますか?
楽器店が多い。
病院が多い。
学生街。
カレー屋が多い。
そんな多面的なイメージを持つお茶の水ですが、実はお茶の水という場所は分かりづらい部分も多く、1899内でよく話題になることも。
「お茶の水」?それとも「御茶ノ水」?
何でお茶の水?
1899のお茶とお茶の水のお茶の関係は?
さっそく「お茶」という単語が続いていますが今回はそんな「お茶の水」に焦点を当てていきます。
ちなみに過去のCHACHACHAブログ「驚くことなかれ!1899はお江戸の中心地にあった! -1899のプチ名所探訪記-」でもお茶の水の歴史について触れているので是非こちらもご覧ください。
お茶の水の由来
お茶の水の地名の由来は文字通り、「お茶」の「水」がこの地にあったから。
江戸時代、徳川家のお茶を淹れるための水がこの地から湧いていたことに由来します。この由来の根拠のひとつとして、JR御茶ノ水駅のすぐ近くにそれを示す石碑があることを皆さんはご存知ですか。JR御茶ノ水駅「御茶ノ水橋口」を出て目の前の交差点にある交番横にあり、書かれている内容はブログ文末でご紹介しますが、要約すると、「神田山の麓にある高林寺の庭より良い水がわき出て、その後毎日徳川家に納めるようになったことから、お茶の水と呼ばれるようになった」とのこと。
お茶の水の景色は人工的なもの
もう少し細かく調べると、1620年頃に江戸で天下普請(てんかぶしん)が行われます。天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のことです。この天下普請の中に神田川の工事がありました。お茶の水に足を運んだことのある方ならわかると思いますが、お茶の水は少し小高い丘のような地理です。北側の本郷台(湯島台)と南側の(駿河台)がひと続きで「神田山」と呼ばれていたそうです。それが天下普請で水害防止の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が作られたのです。JR御茶ノ水駅のホームやお茶の水橋口から見えるあの川景色は人工的に作られたものだったんですね。
そしてこの頃、北側にあった高林寺というお寺から出た湧水があり、これを徳川家に献上することになったそうです。鷹狩りの帰途にあった二代目将軍・秀忠(在職:1605-1623)の差し出したところお茶に用いられて、「大変良い水である」とお褒めの言葉をもらい、その後、毎日この水を献上するようになり、この寺を「お茶の水高林寺」と呼ぶようになったと言われています。
高林寺と明暦の大火
ちなみにこの高林寺、1596年に開山され、1604年に江戸神田からお茶の水に移転。湧水はそこから約20年後の時期となります。しかし高林寺はそこから約30年後の1657年「明暦の大火」の後に現在地・東京都文京区向丘に移転します。「明暦の大火」とは、「明和の大火」、「文化の大火」とともに江戸三大大火と呼ばれ、その中でも「明暦のの大火」の被害は延焼面積・死者数ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭として挙げられます。延焼範囲は外堀内のほぼ全域とのことで関東大震災や東京大空襲などの戦禍、震災であり日本史上最大の火災だったそうです。
日本の歴史の勉強でもあまり出てこないのでは…と思いますが、これらの大きな災害を乗り越えて今を生きる企業や団体の偉大さがわかりますね…。
お茶の水と御茶ノ水
このブログ内でも表記が混在していますが「お茶の水」と「御茶ノ水」。どちらの表記も多く見られますね。1899スタッフでもわからず使っているスタッフがいるかもしれません…。「お茶の水」も「御茶ノ水」も徳川家のお茶用のお水として献上されたことに由来しますが、住所表記としては存在しません。御茶ノ水駅が開業したのが1904年だそうなので、それまでは通称名や俗称として人々の間で使われていたのでしょうか。正確にはわかりませんが、もしそうだとしたら「徳川家のためのお茶の水」というブランドは相当強かった…と思われます。
ちなみにそういったことから明確な決まりはありませんが、地域名としては「お茶の水」、駅名としては「御茶ノ水」が使われることが多いようです。
レストラン1899としてお茶の水の地でスタートした1899。地域の歴史を感じながらお茶を飲んでいただくと、普段以上にゆるやかな時間を過ごせるかもしれません。
ちなみに御茶ノ水駅にある石碑には、このように書かれています。
興味ある方は是非、実際にご覧ください。
慶長の昔、この邊り神田山の麓に
高林寺という禅寺があった ある時
寺の庭より良い水がわき出るので
将軍秀忠公に差し上げたところ
お茶に用いられて大変良い水だとお褒め
の言葉を戴いた。それから毎日
この水を差し上げる様になり この寺を
お茶の水高林寺と呼ばれ、この邊
りをお茶の水と云うようになった。
其の後、茗渓又小赤壁と稱して
文人墨客が風流を楽しむ景勝の地
となった。時代の変遷と共に失われ
行くその風景を惜しみ心ある人達が
この碑を建てた。
お茶の水保勝会 坂内熊治
高林寺 田中良彰
昭和三十二年九月九日