ようこそ天心庵守へ。
樹木希林の遺作となった映画「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)を観たのは、昨年の9月15日にこの大女優が亡くなってすぐの10月末でした。
私は映像のなかの樹木希林という女優の演技や他人に媚びず凛とした佇まいがとても好きですが、私人としての内田啓子という人柄にとても興味がありました。もちろん、これまで何のご縁もありませんでしたので故人を知る機会などなかったのですが、私はこの映画のなかで内田啓子さんに出会えたような気がするのです。ですけれども、何がどうという説明がうまくできません。
なんとなく・・・でも、強烈に今もあの声と口調の強弱が遺っているのです。
何故ならそれらは演じてできた言葉ではなく、これまでこの女優または私人が生きてきた時間から湧きでた心の言葉なのだと勝手に私が感じたからかもしれません。
「世の中にはすぐにわかるものと、すぐわからないものの二種類がある。
すぐにわからないものは長い時間をかけて少しずつわかってくる。」
(映画「日日是好日」より引用。)
静かな映像とともにこの言葉が流れたとき、私はふーっと「流れる時間」を感じて、自然回帰の宙に入り込んだ気にさえなりました。
樹木希林という女優がこの作品を選んだ理由はわかりませんが、私はこの言葉を思い返すたびに単純に原作者が書いたものではなく、私人・内田啓子さん自身の想いを遺されたのかもしれないと一ファンとして願いながら心に留めています。
私にとってこの映画が忘れられないものになったわけの一つに、時間(とき)の流れが五感にひびく描写だったこともあります。
掛け軸の禅語、つくばいの水、雨の音、木々の木漏れ陽・・静かにそして鮮明に映し出されていきました。
そうした美しい描写に誘われながら私の心がほぐれていくと次第にからだ中でトクトクという自分の鼓動が聴こえてきたのです。
あ、自分のからだも時間を運んでいる。そう感じた瞬間、生きていく時間がとても愛おしくなりました。いのちが有限なのも歳を重ねていくうちに現実として感じ始めより身近になってくるのだな、とこのところ想うようになりました。
85歳の母親にとっては、そうしたことがもっともっと当たり前にあって、周りの知人の音沙汰がなくなるたびに「次はわたしかしらね。」というのです。
心の準備がいつでもできているかのようでした。そんな老婆の母がより愛おしくなります。