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日本茶の海外輸出の‟第一歩目”|1899 CHACHACHA BLOG
2021/02/27 一服のお茶のような話 hikaru no CHA
いま、あなたの手元にある“飲み物”は何ですか。
ティーバッグ、ペットボトル、たとえ給茶機であっても、「ちょうどいま、緑茶を口にしていた」という方も多いのではないでしょうか。
“日常茶飯事”という言葉があるように、古来から多くの日本人にとって “緑茶 つまり日本茶” は普段の生活に馴染んでいるもののように思えます。
一方で、そんな日本茶は、馴染みのない日本以外の世界にとって、どのように初めは受け取られたのでしょうか。
そのキーワードは、日本茶の輸出と、その茶箱に描かれた“蘭字”にありました。
◆日本茶輸出の“その一歩目”
日本茶が世界と大きく関わりを持ち始めたのは、江戸時代後期から大正時代にかけてでした。
日本の積極的な緑茶の輸出のきっかけは、1853年(嘉永6年)のペリー長官が率いるアメリカ東インド艦隊の浦賀来航でした。その来航の5年後、江戸幕府はアメリカ、フランス、ロシア、イギリス、オランダとの通商条約である「安政五カ国条約」を結び、箱館・兵庫・神奈川・長崎・新潟の5港を開港します。そして、翌年の1859年(安政6年)からは、緑茶が“日本の花形輸出品”とされ世界を巡るのです。
明治時代に入ると、日本の輸出総額のうち約6割を生糸、次いで緑茶が約2割を占めました。また明治後期には、驚くことに、緑茶の輸出量は当時の日本国内のお茶の生産量の約6割に当たる「約2万トン」にまで達したと記録されています。
ちなみに、輸出先であるアメリカでは、紅茶やコーヒーと同じように煎茶に砂糖、ミルクを入れて飲んでおり、何も加えずに緑茶本来の味や香りを楽しむ日本の喫茶様式とは異なるものだったようです。
現代のアメリカでも、緑茶を甘くして飲む習慣はありますね。
過去のブログでも、その実態をレポートしています。
◆華やかな茶箱が世界を渡る
そんな明治から大正にかけての時代に、横浜や神戸から積み出された輸出用茶箱に貼られたラベルには、“蘭字”というデザインが施されました。「蘭」は、中国語で「西洋」、「字」は「文字」を意味します。輸出国に日本茶のイメージをわかりやすく表現するためであろうか、産地や種類が絵や欧文とともにデザインされました。蘭字は当時の日本の浮世絵の技術を生かし、木版の多色摺りで刷られた図柄には、日本の独自性や生活文化が表現されています。
デザインは、最新の欧米の意匠を取り入れたものと言っても過言ではなく、絵柄だけでなく欧文や飾り縁など近代的なグラフィックデザインの要素をすべて備えているのです。また、輸出、商用の性質ゆえか、残念ながら蘭字の多くは作者が不明とのこと。
実は、1899でも蘭字をモチーフにした茶缶を揃えています。
一目見て“日本”だと感じられるデザインなので、海外のゲストの方にも人気があります。
◆現在の茶の輸出
それでは、近年の茶の輸出の状況はどのようなものでしょうか。
日本茶輸出促進協議会によると、1991年(平成3年)に、価格の安い中国茶の台頭、コーヒーとの競合、国内での需要増の影響から、輸出量253トンで過去最低を記録。
しかし、日本茶の品質の高さが評価され、それからの輸出量は増加傾向にあり、2005年(平成17年)には1,000トン台に、2010年(平成22年)には2,000トン台になりました。輸出対象国も増加しており、輸出量全体の50%を占めるアメリカを中心に、2004年(平成16年)の39カ国から、2013年(平成25年)には49カ国に。
そして、2020年度は日本茶の輸出量が5000トンを超えました。米国、英国、カナダ、フランスへの輸出が伸びていて、特にそれらの国では「粉末状の緑茶」や「抹茶」が人気なようです。粉末状の緑茶や抹茶が欧米の方の心を射止めている理由は、はっきりとはわかりませんが、きっと気軽にお茶を楽しむことができるからではないでしょうか。
どのような飲み方であれ、現在も日本茶が世界に流通していることに、日本茶に関わる身としては興味深く、その将来の可能性にわくわくもします。1899でも、その日本茶の魅力を発信してまいります。
◆美しいデザインのギフトを友人へ“届けて”みては
かつて世界に向けて、“華やかな蘭字の茶箱”が輸出されていたと思うとロマンを感じますね。
また、この茶箱の歴史を俯瞰すると、私はこのように思えてもしまうのです。
「人が手にするものは、買ってしまうものは、やっぱり優れたデザインのものではないか」と。
世界を跨ぐ‟輸出”と比べるとスケールは小さくなりますが、ぜひあなたのご友人や大切な方に美しいデザインのギフトを”届けて”みてはいかがでしょうか。1899でも、そんなギフトを揃えていますよ。